Concorde 2
コンコルド (Concorde) は イギリス と フランス が共同開発した 超音速旅客機 (SST: supersonic transport) である。高度5万5,000〜6万フィートという通常の旅客機の2倍もの高高度を マッハ 2.0で飛行する。定期運行路線をもった唯一の超音速民間旅客機だった。
「コンコルド」の名称は、「協調」や「調和」という意味がある、 フランス語 の concorde と 英語 の concord に由来する。英語でもコンコルドの表記は Concorde だが、読みは英語式に「コンコード」に近い発音になる。
各国が超音速旅客機開発競争にしのぎを削り、イギリスは ブリストル223 、フランスは シュペル ・ カラベル などの超音速旅客機の研究を独自に行っていた。1962年に英仏両国はそれまで独自に行っていた開発を共同で行う方針に転換した。イギリスからはBAC、フランスからは シュド・アビアシオン が開発に参加した。
1969年 3月2日に原型機が初飛行に成功、同年10月1日には音速の壁を突破した。 1972年 6月12日 には 羽田空港 にもデモンストレーションのため飛来している。 1976年 1月21日 から定期的な運航を開始した。 1979年 6月27日 には日本で初めての開催となる 東京サミット に出席するフランスの ヴァレリー・ジスカール・デスタン 大統領の搭乗機として羽田空港に飛来した。また 1990年 には '90長崎旅博覧会 のイベント(チャーター便)として 長崎空港 に飛来したほか、 1994年 には開港翌日の 関西国際空港 に飛来した。
オージー翼 を採用した独特の形状を持つ・高 迎え角 となる離着陸時に下方視界確保のために機首が折れ曲がる、などが特徴的であり、 マッハ 2の 超音速で巡航 するコンコルドの勇姿は未来を感じさせるものであった。

コンコルドは、商業的には失敗であった。その背景として以下のようなものがある。
しかしながら、さまざまな先進的技術が実用化されたのもまた事実である。
250機で 採算ライン に乗るともいわれたようだが、 1976年 11月2日 に製造中止が決定され、最終的に開発当事国の 航空会社 向けに16機(これ以外に原型機が4機)のみが製造されたにとどまった。 日本航空 も国際線向けに3機の導入を計画し、 日の丸 塗装と747塗装の2種類の塗装案も作成し、1965年に仮発注まで行っていたが、コスト面から ボーイング747 に変更する形で購入を取り消した。
エールフランス 機(Model No.101、登録番号F-BTSC)が パリ の シャルル・ド・ゴール空港 を離陸時に滑走路上に落ちていた金属片により主脚のタイヤが破裂し、タイヤ片が主翼下面に当たり燃料タンクを破損、直後に漏れ出た燃料に引火、そのまま炎上・ 墜落 した。地上で巻き込まれた犠牲者を含め114人が死亡するという大惨事となった。小さなトラブルは頻繁にあったが、1969年の初飛行以来、大規模な事故は初めてであった。エールフランスは即日、 ブリティッシュ・エアウェイズ もイギリスの航空当局がコンコルドの耐空証明を取り消すことが確実視されたことにより 8月15日 に、運航停止を決定した
詳細は コンコルド墜落事故 を参照
事故調査に続いて、燃料タンクの ケブラー 繊維の補強、耐パンク性を強化したミシュラン製のタイヤ、燃焼装置の隔離処理等の改修を受けた後、 2001年 11月7日 に運航が再開された。しかし燃費が悪く 航空機関士 が必要なコックピットなど、旧式のシステムであるコンコルドの運行はコストがかかり、直前にアメリカで発生した 同時多発テロ で低迷していた航空需要下では収益性の改善は望み薄であっただろう。
2003年 4月10日 、ブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスは同年10月をもってコンコルドの商用運航を停止することを発表した。エールフランス機は5月、ブリティッシュ・エアウェイズ機も 2003年 10月24日 に最後の営業飛行を終え、後継機もなく超音速旅客機は姿を消した。
ヴァージン・アトランティック航空 が ブリティッシュ・エアウェイズ のコンコルドを買い取ると表明したが、 ブリティッシュ・エアウェイズはこの申し出を拒絶した。ヴァージン・アトランティック航空はコンコルドを 買い取る事に熱心だった模様で、 機内販売 グッズの中にヴァージン・アトランティック航空カラーリングのコンコルド模型を限定販売していた。